大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和55年(う)723号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を横浜地方裁判所に差し戻す。

理由

検察官の控訴趣意は、検察官土屋誠士作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人山口勝寿作成名義の答弁書に、弁護人の控訴趣意は、右弁護人作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官藤岡晋作成名義の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

検察官及び弁護人の事実誤認の論旨について

検察官の論旨は、詳細多岐にわたるが、要するに、原裁判所は、被告人に対する公訴事実について、被告人が単独で李成漢(以下「李」という。)を殺害したとする主位的訴因を排斥し、被告人と及川和弘(以下「及川」という。)の両名が共謀のうえ李を殺害したとする予備的訴因につき、李に対する殺人の実行行為は及川が所携の登山ナイフを使用し、単独で刺突してなしたもので、被告人は、及川が右刺突行為を始める前に、李と口論中、李からいきなりライターの様な固い物で頭部を二回殴打されて憤慨し、李の胸部を右手で突いたら李がその場に仰向けに倒れたので、左手でその顎の付近を押えて殴りかかつたところ、殴る前に左手親指を噛まれてしまい、はずれないため、「及川指を噛み切られそうだから助けてくれ。」と及川に助けを求めただけで、被告人自身は殺人の実行行為を分担せず、かつ被告人が及川の右殺人の実行行為に対し意思支配力を有していたと認めるに足る証拠もなく、被告人が及川に右助けを求め、及川が被告人に加勢した時点で暴力の故意の限度で共謀が成立すると認定せざるを得ず、傷害致死の罪が成立するにとどまる旨認定・説示し、刑法六〇条、二〇五条一項を適用しているが、原判決が、主位的訴因において、被告人の李に対する殺人の単独犯行とされている点を排斥したのは正当であるが、予備的訴因である被告人が及川と共謀のうえ、共同して李を殺害した点をも排斥したのは、証拠の評価を誤つて事実を誤認し、その結果として法令の適用を誤つた違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない、というのであり、弁護人の論旨は、要するに、被告人においては及川と暴行の共謀をしたことはないのに、原判決が、被告人に対し、及川の李殺害行為につき、暴行の限度で共謀を認め、傷害致死の責任を負わせたのは、事実の誤認である、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を総合考察すると、原判決は、本件公訴事実中、主位的訴因である被告人が単独で李を殺害したとする点を排斥した点においては結論において正当であると認められるが、その判断過程で説示する部分については疑問点があり、さらに、予備的訴因である被告人が及川と共謀のうえ、李を殺害したとする点を排斥し、被告人に関しては、及川の李に対する殺人行為について暴行の限度で共謀した旨認定した点で、事実を誤認した疑いが強く、右誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決は右の点において破棄を免れない。その理由は、以下に述べるとおりである。

一、本件公訴事実と原判決の構成の概要

1、本件公訴事実は、「被告人は、かねて李成漢(当時五二才)に対し、かつて同人のため債権取立等の手伝をしてやつたため、その謝礼金を要求したところ、同人から、同人の所持する覚せい剤の売却処分をしてくれたならば、その際、右謝礼金として、金一〇万円を支払うと言われていたところから、同人を脅迫して、同人から右謝礼金として金一〇万円を提供させるか、または、覚せい剤を提供させようと企て、昭和四七年三月二一日午前八時五五分ころ、刃体の長さ約一二・五センチメートルの登山ナイフをジヤンパーの右ポケツトにかくして携行し、川崎市川崎区藤崎四丁目一二〇番地右李成漢方に赴き、同人方二階六畳間において、同人に対し、右金一〇万円の提供方を要求し、次いで、覚せい剤の提供方を要求したが、同人から現金も覚せい剤もない等と断わられて、同人と口論しているうち、同日午前九時ころ、同人から頭部を殴打されたことに立腹し、いきなり同人をその場に左手で押し倒し、さらに左手で同人の顔面を押えつけたところ、同人から左親指を噛まれたため、さらに憤慨し、所携の登山ナイフで同人を殺害しようと決意し、右ナイフを右手に持ち、同人の身体にのりかかる等して、その胸部、腹部、背部等を滅多突きに一〇数回にわたつて突き刺し、間もなく同所において、同人を心臓刺創による失血により死亡させて殺害したものである。」というのであり、訴因としては、被告人の単独犯行をその内容としていたものであるところ、検察官は、昭和五四年六月二三日の原審第四五回公判において、同日付予備的訴因、罰条の追加変更請求書に基づき、訴因、罰条の予備的追加を請求し、同裁判所は、検察官の右請求を許可したが、その予備的に追加された訴因は、前記公訴事実に、被告人が李方へ赴いたのは「及川和弘とともに」であつたこと、被告人が李から左親指を噛まれたため、さらに憤慨し、「及川和弘と共謀のうえ」所携の登山ナイフで李を殺害しようと決意したことを加え、李の殺害は被告人と及川との共謀によるものであるとするものであつた。

2、しかるに、原判決は、右主位的訴因に関し、本件の焦点は、李に対する殺人の実行行為者が誰であるかにあるとし、被告人が殺人の実行行為者であることを裏付ける有力な証拠として、被告人の捜査段階における自白と、これにそう及川の捜査段階及び原審第二回、第二〇回、第二一回、第四二回各公判における供述記載を挙げ、逆に及川が殺人の実行行為者であることを裏付ける証拠として、被告人の原審公判廷における供述記載を挙げ、そのいずれに信用性を認めるのが相当であるかにつき、種々検討を加え、被告人の捜査段階における自白、特に同人が昭和四七年五月一日付検察官に対する供述調書中で本件犯行の態様につき供述するところは極めて具体的かつ詳細であり、犯行現場の客観的状況と矛盾がなく、及川の供述に補われて信用性が高いかのごとくであるが、本件は、被告人が原審公判廷で犯行現場にいなかつたと供述しているのではなく、本件現場にいて李に暴行を加えたことを認める反面殺人の実行行為者は及川であると供述している事案であるため一般に真犯人か否かを認定する際に用いる「真犯人しか知らない事実を被告人が知つているかどうか。」という基準は本件では当てはまらず、このことからすると被告人が本件後血の付着した衣類を他人に洗濯させたり処分させたりしていること、随所で何人かの者に犯行を自認するかのごとき言動をとつていること、その際の被告人の態度は落ちつきがなく、顔色も悪く、ニユースを気にしていたこと、奪取品の指輪を処分し、腕時計の処分にも関与していること、本件の翌日坂田キミ(以下「坂田」という。)方で警察官に会つた際、妹の青木範子に嘘をつかせて同女の夫であつて長内一幸でないように装つたこと、本件後藤波士朗(以下「藤波」という。)や及川から逃走資金をもらつて姿を隠したことなど、被告人が殺人の実行行為者であると思わしめる行動をとつたことも、被告人の原審公判廷で本件犯行を否認し、縷々弁明するところと矛盾せず、右自白を裏付けるものとして十分でなく、また、右自白内容自体も捜査官から現場の状況や死体の損傷状況を示されて、それに合うよう供述した可能性も否定できず、また、関係証拠上認められるとする、〈1〉本件犯行現場の死体の位置、受傷状況、李方階段横板に付着した被告人の血液型と同型の血痕、李の死体近くの畳の上に残された刃物の刺突痕、乳液瓶、被告人所有の腕時計バンド取付用バネの各存在、〈2〉李殺害に使用された兇器(実物は発見されていない)は検察官が原審で証拠として提出した登山ナイフと同型のものであること、〈3〉被告人の左拇指中節に認められる米粒大の瘢痕、頭部の受傷痕の存在の各事実も、被告人を李殺害の実行行為者とする決め手となるものではなく、これにひきかえ、被告人が原審公判廷において、李を殺害したのは及川であるとして、その犯行態様について供述するところは具体的かつ詳細で、客観的状況とよく一致し、李の受傷部位、刃の方向について述べる部分は捜査段階の供述より矛盾が少なく、被告人が捜査段階で自白したのは、被告人の逃走に関与した関係者らが逮捕されるのを心配したためであり、及川の身替わりになろうとしたのは同人の妻が妊娠していたため、同人らの生活が破壊されるのが気の毒であつたからであり、また、被告人が原審公判段階に至つて自白を翻えした一つの理由は、及川が被告人に弁護人をつけるとの約束を破つたからであるなどと弁解するところは不自然ではなく、これに対し、及川の供述は、及川は本件当日李方へ行つておらず、被告人と別れて池袋へ先に帰つたのであつて殺人の実行行為者ではないという点では一貫しているが、捜査段階における供述は、本件兇器である登山ナイフを被告人に貸したか否か、被告人から奪取品の腕時計を見せられたか否か、李方前まで行くのに使用した車両は被告人と及川のいずれが持つて来たのか、これを運転したのは誰か、本件直前に被告人と及川が別れた場所及びどのような経緯で別れたのかの点で、また、原審公判廷における供述も、及川が勾留中被告人からの紙片を相馬を通じて受け取り、被告人と本件に関し事後応答したことがあるか否か、本件の翌日である三月二二日被告人と及川が会つた際藤波が一緒にいたか否か等の点でそれぞれ変遷しており、右供述の変遷箇所が被告人と及川の行動を認定する上で軽視し得ない重大な部分の変遷であつて、信用性に合理的な疑いがあり、これらを総合勘案すると、被告人の捜査段階の自白や及川の供述は、被告人の原審公判廷における供述よりも信憑性が高いとは認められず、合理的な疑いを挾まざるを得ず、従つて、被告人を李殺害の実行行為者と認めることはできないとして主位的訴因を排斥し、予備的訴因については、右主位的訴因に対する判断を前提として、李殺害の実行行為者を及川と認定し、被告人は、及川が本件兇器で李を突き刺す前に同人に対してなした暴行の故意の限度で及川との共謀が成立するに過ぎないとして傷害致死の責任を認め、殺人罪の共謀の事実を否定したのである。

3、そもそも本件殺害行為は被告人、及川各単独でか又は右両名共同でなされたと考えざるを得ないものであるところ、鑑定書が兇器の一個であることを前提としているところなどから、原判決が、及川と被告人の各供述、すなわち、本件当日は李方へ行つていないという及川供述と、被告人が単独で李を殺害した旨の被告人の捜査段階供述、及川が李を殺害した旨の被告人の原審公判廷供述を対比し、実行行為者は被告人か及川かという二者択一の観点に立つて証拠関係を検討し、被告人の原審公判廷供述がより信用できるとして、前記のような認定に達したのは、原審当時の証拠状況のもとでは「疑わしきは被告人の利益に」との原則に従うかぎり、やむを得ない措置であつたと認められる。しかし、及川の供述如何によつては、事態は根本的に変り得るし、もともと原判決の証拠判断に問題がなかつたわけではない。そして、当審における事実取調べの結果は、及川の共同殺害の新供述等が現われるに至り証拠状況を一変させたのである。

二、当審における事実取調べの結果と原判決の検討

1、被害者李の損傷状況について

検察官は、まず、本件犯行に用いられた兇器は、押収にかかる登山ナイフ(東京高裁昭和五五年押第二五八号の1)とほぼ同型のもの一個のほか、これと形状を異にする刃器一個が存在したものであり、被告人と及川は各自右各兇器の一方づつを所持し、各自が共同して李の身体を刺突したものであると主張し、原判決が挙示する医学博士伊藤順通作成の鑑定書(以下「伊藤鑑定書」という。)に記載されている李の死体に残された多数の創傷の部位、形状につき、右伊藤順通が原判決後捜査官に対し、右主張にそう説明をしていること、滝沢渉(以下「滝沢」という。)も原判決後検察官に対し、本件当時及川は二丁の刃物を所持していた旨供述していることを指摘する。

そこで、検討してみるに、伊藤鑑定書によれば、李の死体外表には、表皮剥脱を除き刃物(種類、形状については後述する。)によつて生じた刺創、刺切創等の損傷が、顔面、前頸部、胸部、腹部に計九か所、左側頸部、背面左側に計六か所、右側頸部、背面右側に計五か所、左右両手に計七か所、左大腿部に一か所の合計二八か所に及んでいる(原判決は、右鑑定書第三章四項、(二)、(21)の右肩胛骨部ほぼ中央部の刺創、(23)の右肩胛骨下縁部の刺創、(24)右後腋窩線上、肋骨弓下方部の刺創については認定していない。)こと、李の右上胸部第三肋骨の高さにおいて胸部正中線右側九センチメートルの右乳線上に縦位を取る刺創(同(14))は創口の長さが三センチメートルで創口から左後下方に向かつて胸腔内に刺入し第三肋骨間を切截するなどして心臓刺創を惹起する深い傷で、創洞の長さ約一三センチメートルに及んでおり、これが致命傷となつたことが認められるところ、伊藤鑑定書は、兇器の種類及び用法について、右死体に認められる損傷の大部分が刺創又は刺切創であり、刺創々口の形状が創縁正鋭、一方の創角は鈍、他方の創角は尖鋭にして楔型を呈し、創角の長さは約三センチメートルであり、刃器峰に相当する形状が明瞭であること、創口の長さは最も大なるもので三・二センチメートル(創縁接着時三・四センチメートル)であること、刺創々道の長さは、最長が約一六センチメートルに及んでいることなどから、刃部の長さが少なくとも一五ないし一六センチメートル、刃部の最大幅が三・五センチメートル以内の峰の厚い尖鋭な刃器であり、用法は、かかる刃器による滅多刺しであると推定されるとしている。しかるに、証人伊藤順通は当審第四回公判において、伊藤鑑定書に記載されている右各外表損傷中、心窩部正中線上に横位をとる刺創(同鑑定書四項(ハ)、(15))が創口の長さが三・二センチメートル(創縁接着時三・四センチメートル)、創口中央の〓開〇・八センチメートル、創洞の長さは約一四センチメートルで、そのうち約八センチメートルが肝臓右葉の葉間に近い前面から肝門部に向つて刺入し、肝臓刺入口の大きさは三・五センチメートル×〇・二センチメートルであり、一方、右後腋窩線上、肋骨弓下方六センチメートル位のところに横位をとる刺創(同(24))は創口の長さが二センチメートル(創縁接着時二・二センチメートル)、創口中央の〓開一・〇センチメートル、創道の長さは約九センチメートルで、うち約六センチメートルが肝臓右葉後側面から右葉実質内に刺入し、肝臓刺入口の大きさは三・五センチメートル×〇・五センチメートルである点を対比し、右二つの刺創はその形状を異にしており、肝臓等の実質臓器は、それに刃物が刺入すると、その形が型をとつたように残るなどの点を指摘して、李の死体に認められる右各刺創は、峰の厚い刃器と峰の薄い比較的刃幅の広い刃器の二種類の兇器によつてなされたと推定される旨供述している。たしかに、伊藤証人の右指摘は具体的であり、軽視できないところであるが、伊藤鑑定書は兇器について、前記のごとく推定するところは、それが一個であることを前提とし、その形状にある程度の幅をもたせて兇器の鑑定をしていること、李殺害に使用された兇器は、その実物が発見されておらず、原裁判所に提出された登山ナイフは及川が捜査段階において供述した兇器の種類、形状、購入先をもとにして、捜査官が右供述に合致する登山ナイフを入手したものではあるが、被告人も及川も、李殺害に使用された兇器につき捜査段階、原・当審公判廷において、その兇器の鍔がどのような形状のものであつたのかという点を除いて、おおむね右裁判所に提出された登山ナイフと同様のものである旨一致した供述をしており、現在に至るまで、兇器が複数であることを窺わせる供述をしていないことに照らして、兇器が伊藤証人が証言するような二種類のものであるかどうかについては、さらに、李の身体の損傷部位、程度、形状につき検討し直し再鑑定をするなど審理を尽くす必要があるというべきである。

なお、滝沢渉が当審公判廷で、又藤本直美が当審における尋問調書中で、それぞれ及川は数個の刃物を持つていた旨供述するところは、単に及川の刃物所有という事実を述べるにとどまるものとみるべきで、右各供述から直ちに、本件で使用された兇器が二種類であることを裏付けるものと断定することはできない。

次に、右伊藤証人は、当審公判廷において、被告人が原審公判廷あるいは当審で取調べた被告人の昭和五五年三月一七日付検察官に対する供述調書中で、李から左手親指を噛まれ、これをはずそうと仰向けになつた李に馬乗りになり、あるいは李が右向き、被告人が左向きになつて取組み合つている状態で及川が一人で李の左手側から、その左脇、左胸部付近、背部を刺した旨供述している点につき、かかる体勢で及川が李の致命傷となつた前記右上胸部第三肋間部の刺創を生ずる刺突行為を行うことは無理であると供述している。しかるに、被告人自身李の致命傷となる右刺創についてはもちろん、李の右肩胛部ほぼ中央部に左上方から左下方にやや斜めの創口の長さ二・五センチメートル、左前内方向に深さ七センチメートルの刺創(同(二)、(21)=同添付写真14の7)、右肩胛骨の下縁に接して右上方から左下方にやや斜めの創口二・五センチメートル、左前内方向に深さ約九センチメートルの刺創(同(二)、(23)=同写真14の9)、右後腋窩線上・肋骨弓下方六センチメートルの部位にほぼ横位をとる創口の長さ二・〇センチメートル、左前内方向に深さ約九センチメートルの刺創(同(二)、(24)=同写真14の10)につき、原・当審公判廷において合理的な説明をしていないのであつて、李の身体に認められる多数の前記損傷のうちには、被告人が原・当審公判廷で及川が李を殺害する具体的態様、方法について述べるところを以つてしては説明し得ない重要な損傷部位が認められ、被告人の右供述部分は原判決が説示するごとき「李の身体の損傷状況と矛盾しない」ものとは言えず、その信用性については疑問があり、これと後述する及川の当審公判廷における供述を総合すると、原判決が、被告人の原審公判廷における供述中、及川が李を刺殺したとして、その具体的態様につき述べる部分や、その間における被告人の行動について述べる部分に信用性を認めているところは、証拠の評価を誤つたものとの疑いが強いというべきである。

2、及川、藤本(旧姓及川)直美らの当審供述について

検察官は、及川、藤本、滝沢が、原判決後捜査官に対し、被告人が李殺害に直接関与している旨供述していることを挙げ、本件犯行が及川の単独犯行である旨認定した原判決を論難する。

そこで、検討してみるのに、当裁判所は、及川、藤本、藤波、滝沢を証人として取調べた結果、右証人ら、特に及川は従前の捜査、原審公判段階における供述を一変させ、自らも李殺害の実行行為に及んでいる旨自供し始め、本件犯行の前後の被告人及び及川の行動についても詳細に供述し、また藤本の当裁判所の尋問調書中の供述も及川の右供述にそうものであり、滝沢においても、及川から本件犯行を含む、その前後の状況につき種々話を聞いている旨供述しているので、これらについて検討を加えることとする。

(一)、及川は、原判決も指摘するように、本件については、捜査・原審公判段階を通じ、一貫して及川が李方居室に立ち入つた事実を否認し、本件当時におけるアリバイを主張していたところ、当審第三回、第七回公判において、及川が李方居室に立ち入つた事実を認めたが、その時には李は死亡していた旨供述をしていた。ところが、及川は、当審第一〇回、第一一回公判において、概略次のとおり供述するに至つた。すなわち、「及川と被告人は及川運転の普通乗用車に同乗して李方に向かい、同人方へ通ずる路地の筋向かいのガソリンスタンド敷地に右自動車を乗り入れ、李の甥つ子なる男が出ていくのを待ち、右敷地から右自動車を乗り出し、右甥つ子なる男が出てきた露地入口近くのガードレールの切れ目に停車して被告人を下車させた。及川も被告人と一緒に行こうと思つたが、被告人から『いきなり知らない人間を連れていつてやばい話をしても、用心深い男だから、俺が先に行つて話し、薬を出すようなら呼んで会わせる。』というので、及川は被告人を降し、五、六メートル先で駐車して待つていた。及川は、当日引越しをする関係で急いでいたこともあつて、一〇数分過ぎたころ、車から降り、路地の突き当たりの李方入口まで行き、しばらく待つたが出てこないので玄関を開け、『おい、いるか長内、おれだよ。』と声を掛けると、被告人が二階から降りてきて、及川を二階右側の部屋に案内した。そのとき、部屋に李が居り、同人が『連れてくることないんだ。会う必要もない。』と言つており、及川としては、同人が行く前に話が沸騰していたように感じた。被告人はこれに対し、『せつかくきたんだから会うだけでも会つていけ。』などと言い、李は『この野郎、おれのところ、けつまくりにきたのか。』と喧嘩腰になつていたが、及川は被告人の指示で室内に入り、被告人の後に座つた。ところが、李は、右のようにののしりながら被告人を突き飛ばすようにし、被告人も『おれだつて今日は覚悟してきているんだ、なめるんじやねえ。』などと応答し、被告人と李とは絡み合い、李が被告人の顔を殴り、被告人も相手に向かつていき、殴り合いとなり、被告人が二・三発殴られたときに、同人が後のバンドに差していたナイフを李に見つけられたらしく、李は『おまえ、何持つてるんだ、おれにこんなまねをして、何のまねだ。』などと言いながら、右ナイフを取りにかかり、被告人もこれをとられまいとして、ナイフを鞘から抜き、李の腹か胸のあたりを刺し、さらに、被告人が李を押し倒し、その上に乗りかかるようにしながら李を刺していたが、李も両手で被告人からナイフを取り上げようとしたため、被告人は及川に助けを求めた。李は被告人に乗りかかられたまま動き回り、足で及川を蹴りつけたが、及川は、李の足の方から被告人の助勢に入り、ナイフの柄の部分を両手でつかみ、李の腹部を二、三箇所刺し、一たん及川がナイフを取り上げ、李の腿あたりを刺たが李に蹴飛ばされたためナイフを手放した。その後及川はさらに被告人に加勢しようとしたが、その時点では被告人がナイフを持つて李の胸部や背部を刺していた。被告人の攻撃が終りに近づいたころ、李が大声を出して助けを求めたため、被告人が左手で李の口を押えたところ、李に左手の指を噛まれ、被告人はナイフで李の前額部や頸部を刺していた。李を殺害したのち、及川は李の身体から腕時計を外したり、一万円札一枚を抜き取り、被告人は指輪を抜き取つたり、同室内を物色して覚せい剤をさがしたりなどし、さらに、及川の指示で被告人は、はいていた靴下を脱いで、出血していた左手にこれをはめ、素手でさわつたと思われる箇所について指紋が残らぬようふいたりした。」旨、本件犯行に至る経緯、犯行状況等につき具体的かつ詳細に供述するに至つたのである。

たしかに、及川は、本件に関し、昭和五五年四月二七日横浜地方裁判所に被告人と共同正犯であるとして起訴され、現在同裁判所で審理中であり、しかも、李に対する殺害行為者が誰であるのかの点及びその具体的態様がどうであつたのかについて、被告人と及川とで、その言い分がいまだ相反しており、及川が捜査段階、原審公判廷において、本件につき供述するところは、原判決も指摘するように、本件犯行前後を通じた同人の行動の点等重要な点で変遷していることに加えて、刑事事件の被告人は、共犯者の存在を主張して自己の刑責の軽減をはかることがままあり、そのため、共犯者の供述の信用性についての判断は特に慎重にすべきであるとされていること、本件については、李殺害に使用された兇器の実物が発見されておらず、李殺害現場の状況や前記李の身体の損傷状況などからして、犯人の着衣に李の血液が付着していることが推定されるが、その着衣も発見されておらず、本件犯罪事実の認定にあたつては、及川の右供述の信用性の有無がきわめて重大な位置をしめることをも併せ考えると、右及川の当審公判廷における供述は慎重に検討しなければならないことはいうまでもないところである。しかしながら、及川が当審公判廷において前記のごとく、従前の供述を一変して自分も李殺害の実行行為をしている旨供述するに至つたのは、同人自身が李殺害の容疑で起訴されてから一年半を経過した時点からであり、また、右起訴は、被告人に対する原判決が宣告された後であり、しかも、予備的訴因は、被告人との共謀による李殺害というのであること、さらに及川自身、当審第一〇回公判において、本件犯行を自認するに至つた理由につき、同人がすでに別件で懲役一〇年の刑に処せられて服役中であり、本件で更にその先一〇年あるいはそれ以上の刑を受けるであろうことを覚悟した上で、本件についても清算したい旨供述していることをも併せ考えると、及川が自己の刑責の軽減をはかるため、本件は被告人の単独犯行であるとする従前の主張を変更し、自己の処罰を承知で李に対する共同殺害を否定する被告人を共犯者に仕立てたとまで考えることは困難であり、また、その供述内容自体も極めて具体的であり、後記証人藤本が当裁判所における尋問調書中で、本件犯行の翌日の及川の言動につき供述するところと対比してみても、特に矛盾するところはなく、さらに被告人の原審公判廷における供述に含まれる後記不自然さを併せ考えると原判決が指摘する及川の原審公判段階における供述の変遷の点を考慮しても、直ちに信用性がないとして排斥することはできない。

(二)、しかるに、本件当時及川の妻であつた藤本直美は、当審で、犯行当日の正午ないしは午後一時ころ、池袋の喫茶店「美奈」で及川と会つた際、及川は、「今、人を殺してきた。長内と二人でやつた。」「長内が指を噛まれて血が出た。」などと本件犯行を打ち明け、その後二人で「和荘」へ行く途中、雑貨屋に寄つてほうき等を買い及川が一万円札で代金を支払つたが、それに血痕の様なものがついていたところ、及川はこれについて店の人に鼻血が出て汚してしまつたなどと言い訳をしていたとか、「和荘」へ行つてからも及川から、本件の犯行状況につき、被告人が李の体が動かないように押えていて、及川が李を刺した旨話しており、また同所で及川が取り出した白い手袋の先が汚れており、これを水道の水で洗つたら血が出てきて、及川の指示でこれをごみ箱に捨てたことがある、及川が本件後覚せい剤事犯容疑で下田警察に逮捕され、釈放になつたのち、及川から及川らが従前住んでいた住居に隠してあるジヤンパーとズボンを処分するよう指示されて、これらを焼却したが、右ジヤンパーの胸のあたりの内側に血痕らしきしみがついているのを見た旨供述し、原審公判廷では、子供の父親を殺人犯にしたくなかつたことなどから右「美奈」で及川と待ち合わせた時間を実際のそれより早めて供述して及川をかばつたが、被告人に対してはすまないとの気持を抱いており、当審では、自分の罪ほろぼしをしているつもりで証言している旨供述している。たしかに、藤本の右供述中、及川から聞いたという犯行状況自体に関する話の内容は詳細とはいえないが、藤本は、当時及川の妻であり、しかも妊娠中であつたことからすると、かかる同女に及川が自己の犯行状況をその直後に逐一打ち明けなかつたからといつて不自然であるとはいえないばかりか、及川が藤本と本件当日待ち合わせて会つた後、二人で行動を共にしている間の及川の言動、特に、血のついた一万円札で掃除用具を買い求めたことや、その後、及川が店の人に対して弁解していた状況について供述するところは非常に具体的であつて、自ら体験した者でなければ知り得ぬ事実を語るものというべく、また、血液の付着した衣類等の処分を指示されたとするところも、その衣類等の種類、特徴及びその隠匿場所を具体的に指摘しており、さらに、右のごとき証言をするに至つた理由につき述べるところも不自然とはいえないのであつて、右藤本の供述は、及川の当審第一〇回、第一一回公判における前記供述を裏付けるものとして見のがすことができない。

(三)、ところで、当審で取調べた証人滝沢は、及川が当時勤務していたミニキヤバレー「夜の診察室」で、及川から、本件犯行に関して、その態様や、その後の被告人らの行動等について具体的に打ち明けられたことがある旨供述している。しかし、及川が滝沢に述べたという犯行状況は、及川が当審公判廷において、前記のごとく供述するところと必ずしも一致しているわけではなく、及川から右話を聞いた日時も判然とせず、滝沢自身本件犯行が行われる以前に覚せい剤の件で及川を殴打して金員を支払わせたことがあるとも供述しており及川と滝沢とのかかる関係をも考慮すると、右滝沢の証言が直ちに信用し得ると断定することはできない。

3、被告人の本件犯行に関する捜査、公判段階における供述の信用性に関する原判決の判断の当否について

(一)、被告人が捜査段階で本件についてなした供述の要旨は、原判決が第三争点に対する判断一、10、(2)のイないしハに、同人の原審公判段階における供述の要旨は、同第三、一、10、(3)のイ、ロにそれぞれ記載されているとおりであり、被告人が捜査段階で、本件犯行は被告人の単独犯行である旨自認するところが直ちに信用し得ないものであることは原判決が説示するとおりである。しかしながら、前述したように、被告人が原審公判廷において、李に対する殺害の実行行為者は及川であるとして、その殺害の態様について供述する部分には疑問があり、また、被告人が本件犯行当日あるいはその翌日、本件犯行について、加瀬みよ子、田辺エミ子、坂田キミ、村上千恵子、石川洋子に対し、これを認めるかのごとき言動を示していたとする右加瀬みよ子らの捜査官に対する供述や石川洋子の原審公判廷における供述につき原判決が説示するところは、本件犯行が被告人の単独犯行であるのか、及川の単独犯行であるのかという二者択一の観点から、被告人が捜査段階において、本件犯行が被告人の単独犯行である旨自白しているところを補強するに十分であると断定することはできないとの意味においては相当として、これを是認し得るところである。しかるに、原判決自体、加瀬みよ子が同人の昭和四七年三月二六日付、田辺エミ子が同人の同年三月二二日付、村上千恵子が同人の同年三月二二日付(六枚綴りのもの)各司法警察員に対する各供述調書中でそれぞれ供述するところについては、被告人が右加瀬みよ子、田辺エミ子に対して示した言動は、被告人が本件犯行に何らかの形で関与したことを示したものであり、村上千恵子に対する被告人の言動は、被告人が殺人の実行行為者であることを窺わせると同時に共犯者の存在をほのめかしている点に注意すべきであると判示しながら、結局、被告人の原審公判廷における供述に信用性を認めて、被告人が李殺害の犯行現場に居合わせ、及川が殺害行為に出るきつかけを被告人が作つており、右及川の李に対する殺害行為を目撃していたという状況においては不自然ではないと結論づけるのである。しかしながら、当審に至つて、及川は前記のごとく、本件犯行は被告人と及川が共同してなしたものであると供述するに至り、藤本直美も右及川の供述を裏付ける供述をしていることからすると、前記加瀬みよ子らの供述は被告人が及川と共謀のうえ李を殺害した事実を裏付ける重要な証拠として評価しなければならないというべきである。

(二)、次に、原判決は、藤波が原審公判廷において、被告人から本件犯行を打ち明けられたとして、その時の被告人から聞いた話の内容等につき供述するところは、及川の原審第二一回公判における供述と対比して信用できないと判示する。しかしながら、藤波は、原審第三八回公判において、被告人から犯行を打ち明けられた日時について、原判決が指摘するように答えている一方で、はつきりしないとも答えており、また、被告人自身が右公判においてなした藤波に対する質問は、藤波の証言内容の確認にとどまつており、被告人が本件犯行後藤波に語つた話の内容自体については、何ら弾劾を試みておらず、さらに、藤波は、当審公判廷において、同人が被告人から犯行を打ち明けられた日時については判然としないとしながら、右被告人が藤波に打ち明けた話の内容は、原審で証言したとおりであるとしているのであつて、右藤波の当審公判廷における供述が、ことさら不自然とも思われないことからすると、被告人が日時の点はともかく、本件犯行後、これに近接した日時に、藤波と会つて、本件について前記のごとく本件犯行を認めるような話をしたことは十分考えられるところであり、この点についての原判決の説示は相当とは思われない。

三、以上検討したところを総合勘案すると、当審において取調べた証人及川、同藤本、同藤波、同伊藤の各証言は、いずれも、その信用性を排斥する事情に乏しく、これらと原審が取調べた関係証拠を併せ考えると、検察官が主張するように、被告人が及川と共同して李殺害の実行行為に及んだ可能性は極めて高く、原判決が、被告人に対し、及川との李に対する暴行の限度での共謀を認め、傷害致死の罪を認定したのは、証拠の評価を誤り、事実を誤認した疑いが強いといわざるを得ない。検察官の論旨は理由がある。

四、弁護人の事実誤認の論旨に対する判断

弁護人は、被告人においては、原判示のとおり、李から殴打されたことに憤慨し、同人をその場に押し倒し殴ろうとして左手で同人の顔面を押えつけた際、同人から左手親指を噛まれたものであり、その時点で、李に暴行を加える意思を放棄していたものであつて、それ以後李に対する及川の攻撃的言動を期待する言動に及んだ事実はないから、及川が李を刺突するに際して被告人が及川と共謀した事実はなく、被告人は、本件につき無罪である、というのである。

しかしながら、前記二、三で説示したとおり、本件については、被告人が及川と共同して李殺害の実行行為に及んだ可能性が極めて高く、李に対する攻撃的行動をとらなかつたとは到底窺うことができないのであつて、所論は採用できない。論旨は理由がない。

五、結論

そこで、原判決には、事実誤認の強い疑いがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、弁護人のその余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れないので、刑訴法三九七条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条本文にのつとり、さらに審理を尽くさせるため、本件を横浜地方裁判所に差し戻すこととして、主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例